Yume mitaida,

世界の平和と人類の幸福を祈っています

GEB

GEBを読んでいる.

ゲーデル、エッシャー、バッハ - Wikipedia

でかくて重いので電車の中で読んだりできず,毎日ちょっとずつ読むしかなく,まだ第二部の最初の方. 初めて読んだのは中学生のときで,父の本棚にあったやつだった.

その時は論理計算の話とかはすっ飛ばして,第一部の終わりの方に出てくる禅の話のところでうーんとなってしまってそれで終わりになってしまっていた. 論理計算の話とかを飛ばしてしまった罪悪感もあり,少なくとも禅の話は日本語で書かれているので,ここを理解ないとこの先を読んでも無意味というような無駄な完璧主義を発揮してしまったのだろう.

もちろん実際は無意味なんてことはなく,禅の話が腑に落ちなくても普通に読める. というか,全体的にホフスタッターの直感というか霊感によって書かれている感じの本で,その割に要所要所で冗長な説明(読者サービス的でもある)が多いので,とにかく全体をまず読んだ方がいいタイプの本なのではないか.

第二部に入ってコンピューターサイエンスっぽい話がもっと出てきたり,リスプなどという単語も出てくるので,中学生の自分が通読していたら人生が違ったものになっていただろう. そういう,若い頃読んだら人生変わっただろうな,ということをみんなに思わせるタイプの本ではあるらしく,アマゾンレビューなどにもそんな感じのコメントがけっこうある.

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ぼくが今読んでるのもこの20周年記念版で,まえがきにホフスタッターの当時の思い出みたいなものが書かれていておもしろい. この本を書いた当時,ホフスタッターはまだ博士を取ったばかりみたいな時期で,33歳だったということだ.

中学生のぼくにはこんなに難しい本はない,と思わせたものだけども,今読んでみると,上で書いたようにとにかく冗長でサービス精神が旺盛な本だ. わかりやすく,中学生とかにも飽きないように工夫がされている. それでも読めなかったんだから,本当にぼくはファッションインテリのフェイク野郎 だったんだなーと改めて思った.

ブログを書く

ブログを書いていく.

特に書くことがあるわけではない.

でも今度何か書けるようなこともあるかもしれないし,そういう時にツイッターして終わりでなく,ブログに書いて残しておくのもいいのではないかと思ったので.

転職した

去年のことになるけれども,新卒で入ったSIer下請け会社を辞めて,基幹系?のシステムをRuby on Railsで作ってる感じの会社に入ってプログラマーとなった.

前の会社は給与面などは悪くなかったのであったが,やってる仕事のクソ感が否めなかった.

社長の知り合いというよくわからないおじいさんの会社のために作ったExcelマクロの説明をするために電話で操作の説明をするなど,ゆかいな(ゆかいではない)仕事のある会社ではあったし,辞める時は非常にウェットな引き止めもあったので,エモいかんじにもなったのだったが,今にしてみれば場に流されただけであった……

今はルビーをしています.ルビーオンレールズ

がんばろう

技術ブログみたいなやつ

技術的なことをブログに書くやつをやりたいのだが,正直クソザコなのでできる気がしない.

できないことを検索して,わかったことを僕がまた書くのは,情報のノイズを増やすだけでは?と思ってしまう

でもそれって生きるとは?みたいな話になってしまうので,何かメモ的なものであったとしても書いていくことは大事ではないか

あと何か勉強してることのノートみたいなことを書くのはいいかもしれない.SICPとか……

最近読んだ本

デューンを読んだ.最高に良く,メランジいりコーヒーを飲んで幻視したくなる. 場転がすごくしっかりしており,戯曲のような印象だった.

デューンが60年代の作品であることを考えると,あれもデューン,これもデューンだったんだな〜となる

あとハンターハンターが再開した.オーラの修行は早速自分でもやってみている.僕はプレイ型です.

その後に読んだ本について

モナドの領域以降

それなりに本を読んでるはずだけど書評とかにまでできない。 やる気とアウトプット孔の細さがだめだ

そのうちに書こう書こうと思っているうちだ。

読んだ本リスト

もともと人と違うところ出したくて本を読んでるわけで、 いま自分が読んでる本を自慢したくてしゃーないのです。 だkら読んだ本リストを乗せてこう… すごいっぽさを…出したい…

  • 屍者の帝国伊藤計劃/円城塔  めっちゃおもしろいしすごく今日的。アイリーンっていう人のことすっかり忘れてた。

  • 圏論の歩き方」圏論の歩き方委員会  わかるところがすごく少ない。

  • 数学ガール ガロア理論結城浩  読み始めはどうしてもイラつく。でもやがて楽しい。すごく楽しい…ミルカさん…

  • ガロアの生涯」L. インフェルト/市井三郎  ガロアの人生つらすぎ…つらい…

  • 「アイヴァンホー」サーウォルタースコット/菊池武一  ブリアンドボアギルベールって名前かっこよすぎ、あと最後めっちゃ慌てててどうしたんだとおもった。 ワスヘール!あとサー・トリストラムってトリスタンのことなの? ほんとうはコールリッジを読もうと思ってたんだけどまだよんでない

  • 青色本ウィトゲンシュタイン  論考とぜんぜん言ってること違ってまじすごい。はっきりとこの本はこれこれのことを書いているということはできない

  • ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇」コーラ・ダイアモンド  よみとちゅう

今後

モナドの領域の発売が9月の頭だったから3ヶ月で6冊であって、以外と少ないな… もっといっぱい読んでるような気がしたのに… ともあれ、モナドの領域の単行本と新潮1月号買ったので。

ちなみにこの記事は、おれいまウィトゲンシュタイン読んでっから!という主張のために書いたのです。 ウィトゲンシュタインって地味で暗い感じが良くないですか? ドゥルーズガタリとかは派手すぎじゃないですか?

日記

今週末スターウォーズどうしよう。 ドロイドの大冒険のDVD買ったんだ!!

「モナドの領域」読んだので、その感想

モナドの領域の批評を書く。 佐々木敦によれば批評は感想・レビューをその中に含むらしいから、批評でいいだろう

モナドの領域出版まで読んだ本について

モナドの領域の出版を知ったのが、8月上旬ごろと記憶していて、 なにしろ筒井康隆の最高傑作らしいので、筒井康隆の読んでない長編を読んでおかねばと思い、 それからいっぱい買って読んだ。 それをまず書いておく。ぼくの考えはこれらの本にめっちゃ影響されていると思うので、 これらの本がぼくの筒井康隆観みたいなものを決めていると思う。

あと、筒井康隆観というはなしでいうと、 ずいぶん前に読んだ「虚人たち」「虚航船団」「残像に口紅を」のことはいつも考える。

パラフィクションにかんするおぼえがき

さて、筒井康隆が出版前から言っているところによれば、 モナドの領域は上述の佐々木敦「あなたは今、この文章を読んでいる。−パラフィクションの誕生」から着想をえているらしい。 これは筒井康隆じしんがメタ・パラの7・5人の中で言っていたし、 モナドの領域終盤においてもSF作家が「パラフィクション」と呻いていたからきっとそうなんだろうと思う。

佐々木敦の本のはなしをすると、 まず著者によってパラフィクションの基本形が示される、つまり「あなたは今、この文章を読んでいる」あるいは「Read Me」 それはつまり、端的には、二人称視点あるいは、テクストからの呼びかけによって話が展開するフィクションのことだ。 佐々木敦が引くマリー=ロール・ライアンのフィクション理論によれば、 読者のactual worldをそのtextual referential worldとして持つフィクションという事になるだろうか? どんな作品であっても、長々とactual worldについて書くわけにはいかない、 なにしろ、テクストから知ることのできる読者の現在あるいは過去の状態というのは、後にも先にも 「あなたは今、この文章を読んでいる」以外のことはないのだから。 しかしそれだけでは小説にならないので、円城塔などの作家たちは、 それがあたかも、読者が正しい場所にいさえすれば正しいactual worldへの記述になるような、 例えば、飛行機の座席のポッケの中にある非常時のごあんない文書のような、 そういう記述によって、読者のactual worldを偽装してみせる。 小説である以上、話を面白くするために、やがて読者の考えるactual worldとは乖離し、 読者自身もそこがもはや自分のactual worldなどとは思わず、そこがtextual actual worldであるということを認めるようになるが、 読者は自分のactual worldと乖離した世界にやはり自分の姿を認める。読者は分裂する。

パラフィクションをより小説らしく、面白く、するこころみとして、 佐々木敦はゲーム的世界観の導入を示しており、ここでは読者は最初から分裂した者として定義される。 すなわち、アドベンチャーゲームあるいはロールプレイングゲームにおいては、 読者はプレイヤーと呼ばれ、プレイヤーは現実の肉体をもちコントローラやキーボードを操作する実体であると同時に、 ゲーム内で探索し、恋愛し、成長し、死ぬことさえあるそんざいとして二重の意味を持つ。 プレイヤー(読者)がプレイするまさにその場で、事件が展開し、読者がその読者のものとしてのtextual referential worldの構築に関わる、 これはまさに「あなたは今、この文章を読んでいる」からこそできることで、 「俺の屍をこえてゆけ」などはプレイヤー自身が自分の大河ドラマを作り出せるからいいんだって ゲームを作ってる友達が言っていました。

ゲーム的小説と言えば僕が最初に思うのは「ソーサリー」のようなゲームブックで、 そこでは読者はまさに「きみ」とよばれて、こまぎれのテクストから自分だけの旅を、地図をつくることになる。 架空の地図が表わすものは、まさにtextual referential worldの地勢であろうと思われ、 そこにはエクリチュールつまりフィクションに寄り添いながらもあきらかに読まれることによる物語生成があって、 まさにパラフィクションと思わずにはいられない。

パラフィクションの話がまるで終わらないのだが

佐々木敦渡部直己の話を引く場面の話で、 もっともっとトラディショナルなこころみに本格ミステリというのがあると。 「「名探偵」という「最も鋭敏な読者」」を虚構内存在として登場させ、 かれを通じて読者にtextual referential worldを訪れさせるという手法がそれだ。 本格ミステリの名探偵は読者と同じ条件で推理を行い、終盤において読者に対してさあ予想してみたまえ、という(らしい)、 そこで名探偵あるいは地の文あるいは作品内作者が語りかけるのはほかならぬ真の読者であり、 したがってその時点のtextual referential worldは、作品内および読者の誰にとっても量子的な重ね合わせの状態にあるといえる。 単行本で買っているならすでに結果は書かれているはずであるが、 連載みたいな形式だったら、ほんとうにまだ作者が結末や犯人の動機を考えていない可能性もある。 つまりこれは、たいへんに現実の未来のありように似ていると言えるのではないか。 読者は未だ来ない未来をあれやこれやと騒々しく想像し、創造する。それはまさにパラフィクション的だ。 本来ならばそこにいるはずのない読者に対して、共時性を感じさせ、未来を思わさせる、 しかもそれは読者にとっての現実でない、textual referential worldにおける共時性であり未来だ。

でもミステリには欠点があって、それは同じ本は初めて読むのはふつうは一回だけってことだ。 2回目以降、読者にとってそのミステリは、どんなにアッと驚く仕掛けがあっても、ただのフィクションだ。 過去から未来にわたる歴史の記憶を持つ、いわばその世界の創造をすでに経験してしまった読者は、 もはやその世界に対しては真の作者と同等の権能をもつわけで、 歴史の流れを神の視座からたどるにすぎない。 それどころか本格ミステリは、恭しくも神の眷属たる、過去未来のすべての記憶を持つ(忘れることはある) 再読者にたいして、「予想してみたまえ」などとどあつかましい態度を取ってくるんだ。 そあらゆる気づきも創造の喜びも、読者の内的時間においてはすでに過去のことになってしまっている。

ところで、textual referential worldにおける共時性であり未来、 は、考えてみれば別にミステリからでもなく感じることができる。 それは、ふつうのどんな小説からも感じられることだ。 しかし、ふつうのリニアな展開をもつ小説においては、真の作者の権能が十全に力をふるっているため、 意外性のあるせりふ、とか息をもつがせぬ展開によって、読者がただの傍観者になってしまうのがふつうだ。 でもそれは、読者に何の権能もないというのじゃない。 読者が読むことによってtextual referential(actual) worldを出現させるという部分にはやはり変わりなく、 ただ作者のいうがままに創造のわざを行なっているというだけのことだ。 歴史が歴史のあるように、そがままに、ただ先輩の神様のいう事にしたがいtextual referential worldを創っているんだ。 であるから、再読時には、普通の小説も本格ミステリも、二人称パラフィクションも、おんなじことになってしまう。 読者の知っている歴史を、読者がすでに知っているようになぞってゆくだけだ。 ゲームブックは読むたび新しい発見があるかもしれないが、それも100回目の再読者となれば、おんなじことだ。

でも、モナドの領域にもつながる重要な点として、再読者はつまらないと思ってその小説を読んではいない。 小説を読むたび、「ここはいいなあ」とか「うまそうだなあ」とか「いいはなしだなあ」とおもっている。 歴史のすべてを知り、過去から未来にわたる人々の運命を知りながらなお、 美しいとか罪深いとか、おいしそうとか痛そうと思って読んでいる。 再読者は、世界のすべての事実をその心に宿しながら、いま・ここに存在し、目の前の事実にやはりまた感動している。 その事実には、パラフィクショナルな何かがたしかにあるだろうと思える。

パラフィクションと多世界解釈について

で、話は変わって、いや、変わってはいないのだけど、前後して。

本格ミステリ小説にたいして、 その強い共時性と、未来への予測が読者にあたえる効果にたいして、 ぼくはイッツパラフィクションと思ったのだったが、 もっとパラフィクショナルと思える事態に思い当たった。それは二次創作の現場というか実際である。 特に思ったのは婦女子による週刊少年誌のヒーローたちに対するカップリングの話題である。 そこでは、作者の意図をはるかに超えて、読みと解釈によるはてしない創造と捏造が行われている。 それ自体はふつうの創作の現場と変わらないんだが、ちがうのは、 テクストとテクストに対する批評が、読者のもつ世界textual referential worldをひろげていくということだ。 二次創作においては、創作によって批評が行われる。 つまり、読者であった人が、作者となって、同じ作品というか、同じtextual referential worldを創造する。 それも、読むことによってでなく、書くことによって、改変を伴う再創造を行う。 それによって、二次創作の読者が産まれ、二次創作の読者は読んだものへの批判からまた新しい二次創作を行う。 無限に続きうる開かれたメタフィクションといってもいい、二次創作の作品群のつらなりは、 オリジナル作品の近傍に、無数に寄り集まっていく。 それらは、作品の準拠枠とか、textual referential worldが同じであることを前提としていながら、 それらの作品が持ち寄る事件は、時間軸的にも、空間的にも、精神的にも、文脈的にもバッティングする(場合がある)。 そのような、世界間に矛盾を含む世界群全体は、いわゆる多元宇宙あるいは平行世界といえるだろう。 二次創作群の読者は、多元宇宙のあらゆる事件、歴史、人物、運命について精通し、かつ、 それらすべてものが互いに関連しあい矛盾し合うということを理解しながら、それでもなお、 作品を貪り読み、また新たな宇宙や性癖の開拓にいそしむのだ。

たとえば、トリコと小松がホモセックスにいそしむ、というようなまんが(さいきん見かけただけで特に選んだことに深い意味はないです) があり、そういうものを読んだことのある人にとっては、 その後ジャンプを読んでいて「トリコ」に時間の飛ぶ描写や、次の日になるようなことがあるたびに、 可能な世界がばたばたと広がる。 トリコと小松の前夜の痴態や、何やかやを思い返し、思い過ごし、しかるにそれは、 今共時性を感じながら読むそのいまここでないテクスト、まだ存在しないかもしれないテクスト、 その世界にとっての可能世界となるテクストなのだ。 その可能世界のテクストには、作者も、再読者も、虚構内存在たちも、まだ到達してないテクストがまだ無数に存在し、読まれうるのだ。 ここには非常にパラフィクショナルな事態があるような感じがする。

というのがまあ、モナドの領域と関係のあるパラフィクション的事態について考えたことなのだが、 ほとんど佐々木敦の本についての僕の感想文になってしまった。 でもモナドの領域をもう読んだ人にとってみれば、 ああはいはいその話ねと思ってもらえるんじゃないかなあ。

モナドの領域の感想

それで。それで。 モナドの領域である。 まずこの作品に対して、さくっとした印象批判をするとすると、 筒井先生ありがとうとか最高に美しい小説の到達点みたいに言われているのだが、 ぼくにはあまりそうは思われなかった。 だってGODの立ち居振舞いがどうやってもうさんくさくて、しかも作者が筒井康隆なんだから、 トマスアクィナス君なんて言われた日には、 内なる小学三年生による三角定規の臓物みたいな印象しかでてこないんだ。 みねこさんはとにかく榎本奈美子めいて美女であり献身的であり、 記号としての女性ではないナマ感のあるかわいさがあるんだ。 ついでにいえば、ちんぴらが「おじん」と言ったり、上代刑事の造形とかが聖痕を思わせたりするが、 つまり、モナドの領域は小説であって、小説という紙でありながら神を越えた何者かではない。 時かけのラストとか、GODの全能性とか、たとえSF作家が「パラフィクション」って呻いたとしても、 筒井康隆本人が「どうも自分で書いた気がしない。何かが書かせてくれたような気がする」って言ったとしても、 それではまだ唯のメタフィクションであって、おれたちはもう知っている筈だ。GODは登場人物であると。 モナドの領域において、全能者が登場するのであれば、それは筒井康隆が書いたものなんだと。

しかし、ここまで書いた時点で、偽文士目碌の昨日の更新分をよんだら、 なんでもみんな感動し涙し佐々木敦までもそう言っているというんだ。これはどういうことなんだ。 おれは筒井康隆が好きだと今まで公言し、しかしそのわりに長編をあんまり読んでなかったから、 このたびいっぱい読み、曲りなりにも即席のツツイストとしてこのモナドの領域に向かった筈だ。何故だ。 やっぱりおれはモグリだったのか。あるいは冷感症なのか。あんまり寝ずに読んだものだから 寝ぼけて肝心要のいいところを読み落としたのか。 やっぱり時かけ読んでないのがいけないのかなあ。出世作みたいなとこあるしなあ。 筒井康隆を語る上ではいまだに一つのイコンということなのかなあ。

ぼくはいまだ、時かけを読んでいません。 だからモグリかもしれないです。 でもさあ、パプリカとダンシングヴァニティのあとで時かけ読みたいって思う? おれは思わなかった。今朝まで思わなかった。でも今朝読んどけばよかったって本当に思った。

で、 モナドの領域は、神に関する小説だ。 おもねったり、さばきを行ったりしない、マジな絶対者としての神だ。 神は、地球を作り、人類を作り、歴史を作り、文化を作り、人類と生物と地球とをやがて滅ぼすが、 それは何か、人類の意図とか、誠意とか、罪には、まったく依存しない、 まるで独立にそういういとなみをする、するはず、実際している、ということだ しかし、ここでもっと重要というか、印象的に書かれているのは、たぶん神の気持ちのような部分だ つまり、神は、無感覚でなく、また、無関心でもないということ、 神は世界を愛し、被造物の総てをくまなく愛し、それらの事件文物の生成消滅のすべてに注視し、 それらすべてのことをいつくしんでいるのだよ。ということだ。

でこういうことが、作中人物であるはずのところのGODの口から語られる。が、作中人物である以上、 彼の言葉は筒井康隆によって書かれたものである。だからこれはフィクションのうそっぱち。

しかし、GODが本ものの、わたしたちの造物主であるということもあるんではないのか。 本ものの造物主にとっては、わたしたち自身も、わたしたちが読むところの虚構内存在も、 ひとしく被造物であろうから、GODが作品中の虚構内存在にたいする振る舞いは、 私たちに対しても同じようであろうと察せられる。

だけどモナドの領域は、どこまでいっても、筒井康隆によって書かれたものであるという事実から逃げられない。 GODは造物主であるけれども、筒井康隆もまた、虚構内においては造物主であるのだ。

藤田和日郎月光条例でも書かれたことであったが、 虚構内存在にたいして、作者は絶対的な存在ではあるが、 その絶対性を振るうことは、ふつう、できない。 それは、そのような行いが対象の虚構の存在意義をゆがめてしまうのがふつうだからだ。 マッチ売りの少女の物語をハッピーエンドにすることはできない。 マッチ売りの少女の人生は辛いものだったが、しかし、月光条例においては、 読者との関わり、つまり「パラ」の部分において彼女は幸せを感じることができた。

しかし筒井康隆は、今までの作品(特に80年代より前の作品)において、その権能を振るいまくってきた。 ありていにいえば、自らの被造物たる虚構内存在達を、いじめていじめていじめ抜いてきた。 それは、今にして思えば、虚構内存在と語らおうとする取り組みだったんだろう。 でもそれはやっぱり無理だった。ということに、筒井康隆もきづいてしまった。 筒井康隆にできることは、神として、その被造物へ愛を告白することだけだった。

歴史が歴史であるように、そのままにしておく、というのは、 聖痕筒井康隆がまさにやったことだ。 葉月貴夫とその家族には、(筒井康隆の作品としてはありえない程度に)ふつうの事件しか起こらない。 そして筒井康隆が彼らに対してやったことといえば、 ただ、虚構外の世界の歴史をつたえることと、 彼らの生活や心情を丁寧に、新しく古い日本語でもって書いたことだ。 筒井康隆は、昔のスラップスティックの時代からは考えられないくらい、虚構内の事物を慈しんで書いていた。

歴史はひどいことにもなるし、人間はひどいが、人間の滅んでいく姿は美しかったと。 その話で思い出すのは、筒井康隆の書いたSF「幻想の未来」であって、 その中で、宇宙からやってきた石が話す、 「結局のところ、歴史の中に無駄なことなんてひとつもありゃしませんでしたよ」という、その話だ。 ぼくはその話を中学生のころ(高校生だったかも)読んで、本当に人生観が変わったものだった。 それはおそらく、筒井康隆が実際の歴史に対してそういうものだろうと思っていたんだと思うのだが、 巨船ベラスレトラスとかダンシングヴァニティで書いてたことから察するに、 虚構の中についても、そういうことなんだと思い始めてたのではないだろうか。 GODのしゃべっていることは、たしかにテクストではあるが、世界を創造し続けてきた筒井康隆の、 創造してきた世界にたいする正直な告白ではないのか。

この文章を書いてるうちに、時かけ、読みました。 テクストとしては、どうってことない、っていうか、 リアルSFになる可能性を残しつつファンタジーに止めるセンスの良さ、とか、 いろんなことがまあ、あるとおもうんですけど、 何よりやばいのは、これが50年前に書かれたもので、未だにテクストも作者も生きてるってことなんですよね。 創作の掟と極意で、作家であることの幸福っていう文章を書いてらっしゃいましたけど、 これはまあ確かに、幸福としか言いようのない出来事であると思います。

まとめ

で、まあ、そういうかんじです。 全然まとまらないですけど、モナドの領域は、最終的なテーマというけど、小説を終わらせるような小説 ではなくて、小説を多元宇宙のうちの一つの世界と考えた時の多元宇宙全体の話なんだろうと思います。 つまり、俺たちの戦いは始まったばかり、ってことで、 この果てしなく長い男坂をのぼりつづけてゆくってことなんだと。

さしあたりぼくは、朝のガスパール屍者の帝国を読もうと思います。